時に、過ぎたる完璧主義は自滅を引き起こす。己に求むその「普通」が、凡人にとっての「優秀」「完璧」であると気づかぬのなら、猶更だ。

春告の偏西風

 ――気分が悪い。中学の二年半ばに引きこもってから、今日まで学業施設を目にすることはなかった。だというのに慣らしもせず急に出てきたのだからそれはそうだろう、と呼吸を必死に押し殺しながら答えのない自問を続けていた。肺が求めるままに空気を吸おうものなら、過呼吸も上乗せされるかもしれない。自分の吐しゃ物で窒息して死にたくないので、こうして静かに丸まっていることしかできなかった。少なくとも、運よく他の生徒からはまず見えない位置を取っている。こんな弱った新入生が一人学校の隅で死にかけていたら、何をしてくるかわからないからだ。
 中高生というのは私が思うよりも子供で、臆病で、弱った獲物が目の前に転がっていたら嬉々として残虐行為を楽しんで、己の稚拙な征服欲とエゴを満たすだけの質の悪い獣だと私は知っている。女もだめなのだ。むしろ男子生徒に見つかってシンプルに暴行を受けるならそれはまだマシなケースで、その性奴隷かシンパの女生徒はほとんどの場合、さらに情報面・精神面、またはヒエラルキーにおいてひどく陰湿かつ狡猾な手段を執る。なぜかというと、多くの個体は性差的に力量では男性に勝てない。その代わりに卑しくマウントを取って勝ち誇ることで生存するように進化したからだ。
 そのくせ繁殖上の必要性と諸々を含めて、Twitter上であれほど嫌い憎む男に結局のところ最後は媚びて生きるしかできないなんて、皮肉極まりなく可哀想な生き物だ。私は体こそ男性に生まれたけれど、どちらの嫌な面も知ってしまった以上どちらに偏ることもしたくない。もちろん特定性が嫌いなわけではなく、単純にひとが信頼できない。特に同年代。
 ――まあ、付近に存在する何かしらと言えば教師陣の駐車場だ。体育会系に見つかった場合はともかく、多くは吐き気と過呼吸一歩手前で動けない私をひっつかんで保健室へ引きずるくらいはするはずだ。彼らにとって生徒は商材なのだから、私の推測が正しいなら、とりあえず肉体的に死なないようには手配するはず……するのだろうか。家を出る前に、この高校のレビューを調べてくることを怠ってしまったことを自責してしまいそう。
 息を吸う。四月も半ば、そろそろ温まってきた春の陽気が喉にべったりと張り付いた。誰かの肌のように生暖かい空気、気が触れそうになる。――息を吐く。体温ごとその空気を、肺から引きずり出される。呼吸しているだけですでに耐えがたい吐き気を催しているが、生き物は呼吸をやめると死んでしまう。キリスト教信者曰く、神がそう作ったらしいが、なぜそんなデザインをしたのか最低一時間は問いただしてやりたくなった。そんな日も今日が初めてだ。
 付近に、時計がない。時刻がわからない。あと何時間、こうしていればいいのだろう。というか今、入学式が始まったのか、まだ無駄な歓迎準備に時間を費やしているのか、それとももう終わっているのか、定かではない。情報を探して確定させられる状態にない。気を抜けば、途方もない時間への恐怖に足元をさらわれそうだ。
 
「なあ」
 
 完全に想定外のタイミングで、頭上から降ってきた言葉にわかりやすく肩を震わせた。声の調子からして教師ではない、顔を埋めた腕の隙間から見える彼の足元は制服だ。ここまで探しに来た、ということはもう始まっているのだろうか。
 おそるおそる顔をあげると、運動部だろうか。制服のジャケットからもまあまあ解る精悍な体つきをして、長い赤毛を春のそよ風と陽光にさらしながら心配そうにこちらをみとめる生徒が立っている。
「…あ、ごめんな。気分悪そうだと思って。保健室の先生呼んでくるか?」
 向こうも死にかけの生き物を相手していたとは思っていなかったのだろうか。なるべく体に障らないようにか声量を落としてかがむ。目線を合わせようとするそぶりはやけに慣れている、子供や年下のひとを扱う機会が多かったのかもしれない。
「…動けないんですが」
「だろうよ、ごめん」
 返答を間違ったのか、苦笑を返されて終わる。ふと、自分以外の要素に目を向けたおかげか、彼の背から人の喧騒を受け取った。まだ登校時間か、とすればそれほど時間を潰せていなかったことになる。眉をしかめて日の当たる方から顔を背ければ、見に来た生徒も習うように近くへ座り込んだ。
「うん、じゃあ落ち着くまでちょっと話そうぜ」
「オレ、誰に呼ばれたってわけでもないんだ、鞄が妙なとこに落ちてて心配になったってだけでな」
 だったらそのまま放っておいて欲しかった、とまでは呼吸が持たずに言えない。言えるほどに息を吸い込めば何が起こるかわからないし、最悪吐くだろうと思って言い出せなかった。この人はこういった行為が仕事なのだろう、困っている人に関してには目敏そうだ。私とは少し色彩を変えた、あたたかな蜂蜜色の目。その瞳を覗き込んでいたら、鏡のように私の姿が映ってしまいそうで嫌になる。
「まあ、先生も流石に気分悪くした奴を叱らねえだろ」
「もし叱られそうになったら、その分もオレが代わりに叱られとく」
 その善意の対価に何を要求されるかわかったものじゃないが、人を手玉に取ることも得意なんだろう。幼子へ語るように柔和な声は、確かに聴いていると少しずつ腹で暴れている虫が収まっていきそうだ。
「…なぜそこまでして、遅れたがるんですかね」
「あぁ、…すまん、嫌だったか」
「そういう話ではないです」
 少しずつ息がしやすくなってきた。とはいえ、まだ春の陽気をいっぱいに詰め込めるほど余裕はない。できる限り無茶をしないように、ゆっくりと息をする。
「朝飯食いすぎたりとかしてねえ?」
「食べてません」
 逆に食おうぜ、と小言が飛んできたが右から左に受け流す。食べる暇がなかった、という方が正しい。アラームを遅刻ギリギリに設定したこちらに非があるのは重々承知の上で、それでも入学式の開始までに滑り込んでおけばまあ教師から小突かれるだけで済むだろうと高をくくって就寝した。がそれでも結局眠れなかった。焦って寝られないことはいくらでもあったが、今回はそれより恐怖が大きく勝った。初日はどうも、完璧にこなさなければ、普通の人間が毎日通える施設で、私はただそれから逃げていただけだと、ヒトだと自称するなら、毎日朝に起きて、無駄なことに拘らず静かに登校できるべきだ、なんせほとんどの人間がそうしているのだから、それができなければ私は、と延々考えてしまって気をやった。それをどうにかここまで押し込めてこられたのだから、そのまま進めばよかった。
「朝抜いてるなら、式終わって帰るときなんか食って帰ろうぜ。お腹すいてるだろ」
「はあ」
 私の参加意思は考慮していないのか、とも思った。けれど、同時に取り付いておける人間を作るのも手段としては良好か、とも考える。それこそ、ここまで善意に満ち溢れた素晴らしい人格者を取り込んでおけば、まあいかれた猿に目を付けられることも少なくなるだろう。体格も私よりしっかりとしているなら後ろに隠れて壁にもできる。そんなよこしまな思考を手慰み程度に転がしながら、ぽつぽつと紡がれる生徒の言葉にしばらく耳を傾けていた。
「そういや、名前聞いてねえな」
「ん」
 どこまでも善意に満たされた顔で、赤毛の生徒が首をかしげて口を閉ざしている。言わなきゃいけないのか。どうにかして逃れたい。
「……言いたくないって言って、許せるひとですか」
 あー、とつぶやいて苦笑を浮かべたそのひとは、緩やかに首を振る。長い赤毛がさらさらと、流していた肩口から零れていく。
「そりゃ、急に押しかけて話に来た奴に言いたくねえよな」
「そういうわけじゃないんですけど」
 じゃあ、こういうのは先にオレが名乗った方がいいか、と生徒が発する。私が手の内をひけらかす前に少しでも情報面においてアドバンテージができるならいいだろう、と思ったので許可してやると、よかった、と嬉しそうな声がした。
「オレ、緋ヶ谷って言うんだ。緋ヶ谷 殉(ひがや じゅん)」
「もしかして、警戒されてるのってオレが上級生かなんかに見えてたからか? だったらごめんな、普通に新入生だぜ」
 ひがやさん、と復唱してみる。おう、とそのたび律儀に返答するので犬を構っているみたいで面白い。
「犬みたい」
「なんだそりゃ」
 そのまま口に出したら苦笑されたが。校門を通過する生徒も随分まばらになってきた頃、そろそろ向かわねばそろって教師に叱られるだろう。それでも、緋ヶ谷さんは私の傍から離れようとするそぶりはない。
「…そろそろ、教室行かないといけないんじゃないですか」
「体調、もう大丈夫になったか?」
「なんで、そこで私の体調が引き合いに出るんですかね」
 他人をここまで構わずに、自分の時間を優先してさっさと一人で向かえばいいものを。とまでか言語化しなかったがそれを察したように、途端眉を下げてあいまいそうな表情をしだす。
「入学式終わって戻ったら悪化して倒れてるとか、そういうのは見たくないんだよな」
 一応こうして話してた仲だしさ、と付け加えられたがその良心と縁は私からしたらただの押し付けである。善人気取りはこれだから困る、善意をこれでもかと押し付けた後に獲物が安心しきったところで後出しの対価――それも価値的には法外なもの――を要求する人間なのだ。彼らからすれば高潔な人助けの名のもとに回っているビジネスなんだろうが、逆にそれが一般化レベルでまかり通っているこの世界はどれほどいびつなのか知れてしまう。ふーん、と相槌を打つ声は我ながら冷たく、春先の冷えた風と混ざって少しだけ凍えてしまいそうだ。
「――」
 このまま世間へ躍り出たらあっという間に冷たいやつだ、と見られるだろう私にも、一応人の持つ温かみは存在するのだ。表現にも飲み込むにも難い心地の悪さを、何も入っていない胃の底に感じている。それを吐き出すような形で、私は己の名前を口にした。
「……風耶ふうかです」
「お」
 顔を上げたそのひとは妙に嬉しそうで、本当餌をくれて舞い上がる犬そのものだ。一度吐き出してしまえば、まるで栓を抜いたようにゆるゆると残りの吐き気も収まってくる。ほう、と一息ついて重たい足腰で立ち上がると、もう大丈夫か、と心配するような声が飛んでくる。頷いて返せば、いつの間にやら持ってきていたらしいかばんを二人分担いで、手を伸べた。
「行こうぜ」
 見えない壁のように遮る日陰と日向の境に恐る恐る足を踏み出せば、こともなくあっさりと緋ヶ谷さんの手を取れてしまった。あれほど背を刺してきたはずの日の光も、改めて眺めてみれば麗らかに晴れた春の朝だ。
 
 このひとは、日差しをどうにでもできる魔法使いかなんかだろうか。子供らしい当てつけに心の中で苦笑してから、目の前の影を追うことに専念した――
 
 
「桜、咲いてますね」
「時期だからなぁ。駅前のなんかすげえよ、あとで見に行こうぜ」
 

あとがきなど

高校入学初日にバッティングしたふたりの出会い話。かなり前に書いたのでだいぶあれです。