耽溺

 好奇心は猫を殺すという。確かに、今日、だれかの飼い猫が死んだ。
 
 ◆
 
 寝静まった冒険者の宿。女はなんとなしに眠れず、自室の扉をそろりと開けた。我が物顔のようにして部屋から出てきたこの女だが、宿の古株ではない。―― 一か月前、出先で水筒を切らし日射病になりかけていたところを助けてくれたかわいい男の同業者が拾ってくれて、それからも甲斐甲斐しく世話をしてくれたのを理由に、それだけであっさりと恋に落ちてしまった単純な女は、あれこれと手回しをして見事その男の所有権を勝ち取ったついでに宿へ滑り込んできた身分である。
 だから、こういう眠れない日は愛する彼の部屋で白湯でも飲んでゆったりしよう、と息巻きながら女はほかの人間を起こさないように夜の宿を闊歩していた。
 
 ぎっ、
 
   ぎし、
 
 不意に不自然に空いた扉の隙間から、寝台の枠がきしむ音を聞き取る。はて、誰かが恋人を抱いているのかな、という疑念をくすぶらせながら、しかし好奇心に抗えなかったのも確かなようで、
 それが〝誰の自室なのか〟も考えず、それを覗いた。
 
 結果、零テン三秒と持たずに女は、この世の不条理と理解の及ばない狂気を目撃して、後悔した。
 
 〝その枠〟には私がいただろうと顔をひっかいて叫びたくなった、頭が白く染まって泣きそうになった、地団駄を踏みたくなって、女がセルフ天変地異を起こしそうになった、それは、扉の先にあるリアルは、自分より体躯の屈強な――女がこれから泣きつきに行こうとした――男を手管で自在に喘がせ、真面に生きていれば一生男を知らなかったろうその恵体に〝女の快楽〟を教え込む、性悪な行為だった。
 なかされている赤毛の男は健気なもので、枕をひっつかんで強く顔を押し付け、声を殺そうとしているようだった。己が抱かれるはずだったその汗でぬめる褐色のからだが、まるで手も付けられないほど予想と異なるポジションで、あんな快活で人の好さそうな、男の声が子供のようにいやいやとぐずるそれに堕ち、きっと押し倒されたならばカーテンのように上品に広がるだろうと女が妄想していた赤の長髪はざんばらに汗で張り付いて背中から散らばるだけで、均整の取れたたけだけしい男の肉体は、そのすべてで男の性を銜え込んで底なしの悦を享受している。
 その、ギリシア彫刻のようにうつくしい男をあっさりと組み敷いて犯す黒髪の男のおそろしいこと! 人形のような顔を人らしい悪辣な笑みにゆがめ、それは男に囁く。情事のさなかだというのに汗のしずくもなく、熱っぽい色に ましてや欲目の欠片など一切ない、怜悧な金色のひかりを目元にともしていた。
 
 ――情欲を吐き出すための行為ではない、けれどだからこそ温度が低いせいで吐き気を理由に目を離せない。確かに目の前で起きているのは男色の行為なのに、うつくしいポルノフィルムのように女の目をひきつけてしまっていた。
 その金色の目が不意にこちらを向いたのも、演技がましく今気づきましたというような、実際扉の向こうでわなわなと震えるかわいそうな寡婦を目にしても何の反応も示さず、
 
 ただ、
 
「  」
 
 不気味なほどゆったりと笑って、その薄い唇に指をあてた。それだけでも恐ろしかったのに、さんざん下で喚いている男が、胎を深く穿たれひときわ大きく嬌声を上げた。観客は黙っていろと言うのだろうか、はがすまでもない嘘の向こう側で見せつけるような行為が続いている。
 それをみとめた女はいよいよ熱病のようにがたがたと震えだし――片方は恋人でもあった――男同士のリアルな熱情をその身にあびて、まるでバケツで水をひっかけられた猫のように、人であることを忘れたようにばたばたと駆けて部屋へと戻ってしまった。本当に猫が荒らしているんじゃないかというように、その部屋から何かが立て続けに割れ、乱雑に漁るような音が聞こえ、それからボロのバックパックにものをぱんぱんにつめた女が、脱兎のごとく宿の階段を駆けずり回っていったようだった。
 ようだった、とは。――その蛇目の男は、いまさら名も知らぬ友人の女程度にさしたる興味はなく、どちらかといえば今組み敷いているその〝彼氏〟を弄んで鳴かせる方にお熱だったからだ。
 
 ◆
 
「で、どうだったんですかぁ」
「全滅。…や、ほんとに都市から出ちまったかもな」
 その翌朝、アザレアだかアリシアだか、そういう名前の――昨晩 風耶たちの痴態に勝手に動揺して勝手に逃げて行った――女がいないと緋ヶ谷が喚くものだから、仕事ついでに探しに行くと言われてついてきていた。おそらく昨晩の件においては当の本人は気をやってそれどころじゃなかったから、あの間に女が自分のあられもない姿を目撃して出て行ったとは知らないのだろう。日の光を眩しがるように、風耶がその怜悧な金の目を細めて、緋ヶ谷をみる。
「そんな出会って一か月も経ってない人に執心する理由ありますかね」
「風耶も吸血鬼のお嬢さん拾ってたじゃねえか。シレンツィアだっけ、ピンク髪の」
「…まあ拾いましたけど、惚れたのは向こうの勝手ですよ。私なにもしてません」
「メンヘラ製造機が良く言うわ」
 
「それに惚れてる貴方も大概なんですけどねえ」
 
 ――と風耶が返したっきり返答がなく、ちらりと視線をやれば複雑そうな顔で手持ちの紙束を漁る緋ヶ谷がいたものだから、愉快を含んで鼻で笑ってやった。
「もっとも、あくまで人がいいのは演技で、お金や高価なものを男からせびる女だったのかもしれません」
「緋ヶ谷さんってそういう感知能力に乏しいんですから猶更気をつけなさい」
 ――著名な詩人が言っていた。女を信じる者は詐欺師を信じるようなものだ。
 破滅の族、女の一族は神の箱を持つ女(パンドーラー)に由来するからで、それは人類の大いなる災厄、男たちと共に暮らしても、忌まわしい貧乏とは連れ添わず、飽満と連れ添うばかり――
 風耶が口にした詩の一節を聞き流してから、「でも」と緋ヶ谷は唇を開く。
「それ、女嫌いの詩人が残した言葉じゃなかったか」
「逆に貴方は信用しすぎなのですよ。女性に限らず、ひとそのものを」
 ひややかな金糸雀色の瞳に認められて、緋ヶ谷は逡巡したように目をそらす。確かに後先考えず人を信用してひどい目に遭ったことはいくらでもある、冒険者とはもともと「どちらが先に相手を出し抜くか」というものに重きを置いた稼業だ――報酬の釣り上げ交渉が最たる例のように。けれど、同時に緋ヶ谷は思うのだ。明日の朝食や寝床に執着しすぎて、目の前の人を傷つけたり、または心理的なトラウマを引き出して見世物にするようなことは、冒険者以前に、人として最低な行為じゃないか。
 また、そのような思いやりのないひどい人間が増えれば、冒険者という稼業へのあこがれや依頼もまた薄れていくという持論があった。この世の何よりも光と闇が隣人のように共存する職業だから、せめて、夢を追うために冒険者となった人間の目を曇らせたくない。緋ヶ谷も、同じく夢と冒険の果てを望んでこの界隈に飛び込んだのだから。
 だが、やはりそんな甘えた思考が原因でうっかり足元を――隣の男にさえ――すくわれかけたことがあったので、今はただどうするのが正解なのかと緋ヶ谷は悩み続けている。人としての情動を失いたくないと叫ぶ夢のかたまりのすぐそこまで、非情な隣人や到底理解のしがたい狂気などによってがりがりと削られてきている倫理の崖があった。どちらを優先するべきなのか。
「……オレ、そういわれるとなんもわかんねえよ。どっちが正しいとか」
「じゃあ私が決めてあげましょう。この話に関しては私が正しいです、貴方は黙ってついてきなさい」
「…………判断委ねるとすぐそう言う……いや、いい。もう決まった話になっちまった」
 踏ん切りをつけたにしてはまだ鬱屈としたため息を深くついて、緋ヶ谷は立ち上がる。――女の捜索、というのはあくまで副目的であり、さらに緋ヶ谷が腰かけていたのは荷車の空きスペースだ。
 今日は、隣の宿場町へ品物を届けることになっている。品目は布と、食材。おそらく宿のシーツやかけ布の取り換えや、食事の用意に使うものの注文だろう。距離こそ短いが野生動物やそれを狙う妖魔の出没が比較的多い街道を通ることになるため、交易馬車ではなく冒険者による配送を頼んだらしい。
「でかい馬車だと、止めてる間に別の町に運ぶ品も多く積んでるから盗まれちゃ困るって話だ」
「まあ、荷車押して行くにも往復で半日もかかりませんしね」
 風耶たちも南西方面へ依頼に出る際よく利用させてもらっている宿場だ。例の――新人冒険者の育成によく使用される、妖魔が定期的に住み着く洞窟からも近い。その洞窟がまた最近新人により焼き討ちになったそうで、おそらく平時より危険は少ないだろうが、言い換えれば競争相手がいなくなり気を大きくした妖魔のコミュニティなどが迫りくる可能性もある。目先の危険がなくなったくらいでほのぼのお散歩モードに切り替えるほど、もうこの二人はひよっこではない。
 積み荷を軽く確認してから、南門への方面へと歩き出す。普段は機動力を優先してか、それともある程度風を肌で感じられた方が好みなのか上裸の上にジャケットと装備品用のベルトを身に着けている緋ヶ谷にしては珍しく、ジャケットの下に首を詰めた黒のインナーを着こんでいた。
 
 郊外に差し掛かり、人通りがまばらになってきたタイミングで煮え切らない感情に堪えかねた緋ヶ谷が、風耶に声を落とす。
「……で、どうすんだよこれ」
「内出血程度ならせいぜい数日で直るでしょう、私じゃないんですから」
「高度な自虐ネタやめな。…戦闘になったら頼むぜ、腰痛くてかなわん」
 持ち手や底面にロープを通して軽く括った荷車を惰性で引きながら、緋ヶ谷がため息をついた。風耶はしばし叱られどころを理解していない子供のような表情を浮かべているがしばらくすれば、あ、と感づいたようでゆるやかに頷いた。
「意外とガタ来てますねえ」
「ここまで虐めたのはだーれだ」
 精一杯の皮肉を込めて投げた言葉は、帰ってこなかった。その代わりに、坂道でもないのにどんどん風耶が歩みを早めていく。
 
 
「おい、」
 
 
「早く先行きますよ」
「その様子は確信犯だなぁお前なぁ! 逃がさねえよ止まれ!」
「公共の場でそういう話するのはとてもよろしくないかと思いま~~す!」
 てってこと軽快な足取りで先を行く風耶を、荷車を引きずって緋ヶ谷が追いかける。その空を、一羽の鳥が飛んで行った。――ほら、騒ぐから鳥さんに聞かれたじゃないですか、――人の言葉なんか鳥が聞くわけねえだろ、ぎゃあぎゃあとその鳥よりもよほど騒がしくしゃべる男二人は結局、終始鬼ごっこでもしてていたのかその依頼を半分の時間でこなして帰ってきたらしい。

あとがきなど

カードワース時空その1。ヒガヤに彼女ができたのがなんかいやなので浮かれてる相棒下に組み敷いて牽制したら女の子逃げちゃった…ってコト…!?
みたいなお話。